物語を語ろう・322007-04-30 Mon 23:13
宝くじで一億円当たった。
喜んでいたら、その宝くじを盗まれた。 絶望した。人生全てに絶望した。 歩道橋の上で自分の人生についてぼうっと考えていたら、どんな気まぐれか、神様が現れた。 「同情はする。だが、やめておけ」 色とりどりの、様々な車種が眼下を流れるように走っていく。 それを生気のない目で眺め、僕はこれ以上ないくらいの喪失感を抱えながら、ここから落ちたらどれくらい痛い思いをするのだろうか、すぐ死ねるだろうかと考えていた。僕の背後には時折規則正しく人が通り過ぎて行く。 歩道橋の上。その真ん中付近で立ち止まり、ただ下を眺めている僕は、傍から見たら暇な人間だと思われているかもしれない。 そんな僕にぞんざいに声をかけてくる人がいた。 のろのろと視線を向けると、さすがの僕もぎょっとした。 そこには神様がいた。 「投身自殺か。貴様、それがどれだけ多くの人間が迷惑を被るか、考えたことはあるのか」 「な、なん……」 僕は震える指で、神様を指しながらぐらりと眩暈を覚える。冷たい風が吹く季節だ。これは日射病なんかじゃない。 神様は僕の鼻先に小さな小さな指を突きつけた。そう、綿棒の先くらいに小さな手。 「そうだな、死ぬなら樹海へ行け。誰にも気づかれることなく死ねるかもしれん。人には見つからないようにしろ。死ぬなら全ての口座は解約して金を引き出しておけ。今はな、死ぬと遺族がとても苦労する時代だ。口座の解約も面倒なことになる。金は全て引き出して、遺族に送っておけ。家も引き払え。家財道具も全て売り払っておけよ。身辺は綺麗にしておけ。それが自殺する人間ができる唯一の思いやりというものだ。わかったか? わかったらさっさとその陰気なツラを貸せ。見苦しくてかなわん」 神様は一気にまくしたてると、親指を立ててこっちへこいと合図した。馬鹿な。いくら僕の精神状態がおかしいからといっても、こんな幻覚が視えるなんてどうかしてるぞ。 ああでもどうしたことだ、神様は僕が動かないのを見て苛立ったように近づいてきて(なんと浮遊している)、僕の前髪をぐいぐいと引っ張ってきた。い、痛い。これは夢じゃない。夢じゃなさそうだ。 僕がふらふらと歩き出すと、神様は浮遊したまま両手を腰に当てて満足そうにうなずいた。 長い黒髪がさらさらと風に揺れ、羽衣のようなひらひらした衣装がそれに合わせて揺れている。顔立ちはきりりと引き締まっており、生意気な言葉が出るには可愛らしすぎる赤くふっくらとした唇が、優しく薄く、微笑んだ。 太陽は未だ健在。冷たい風は、眼下の車の流れによるものか、酷く汚れてうまいとは言えない。 それでも僕は、神様を見た。 「おめでとう。貴様は選ばれた」 どこまでも傲慢な物言いをする小さな神様の背後から、光が生まれたように見えたのは、果たして僕の錯覚なのか。 「ふむふむ」 「当選番号を見たときは、目の前が真っ白になりました。だって、一億円ですよ? 何十回手元の宝くじと新聞を見比べたか!」 「そうか」 「これで人生変わったって、もう安泰だって、……なのに」 「災難だったな」 「崖から落とされたような気分になりましたよ。これは悪魔の仕業に違いないって」 「……ふふ」 「なんでそこで笑うんですか!」 「笑ってなどいないぞ」 「いーや! 笑ってた! 今笑ってたぁ!」 「落ち着け! 見苦しいぞ」 「うう……!」 僕は決別するつもりで出た家に戻っていた。三畳一間の、ボロアパート。友人すら訪ねて来たことがないこの家に、神様が来ているなんて、誰が信じるだろう。 神様は浮遊したまま、正座してぽつりぽつりと身の上話をする僕を面白そうに眺めている。 僕は涙をぐいと腕で拭いながら、しゃくりあげた。 「天国から地獄とはまさにこのことですよ。生きていてもいいことなんてないんだって。いいことが起こっても、僕の場合最後の最後ですりぬけてしまう。こんな酷い話がありますか」 「そういう星の下に生まれたのだ。甘んじて受けろ」 「受けられるかああああ!!!!!」 僕は両手で頭をかきむしりながらわめいた。神様は不気味なものを見るように僕からすいっと離れて、くるりと身体を回転させながら、僕の家の中を見回している。 ろくに掃除もしないカビ臭い部屋には衣服が散乱していて、隅のほうには積み上げられた漫画雑誌が埃をかぶっている。ミニテーブルの上には読みかけの雑誌とスープの残ったカップ麺。割り箸が一本だけ湯飲みに突っ込まれ、もう片方は下に落ちている。つぶれかけのペットボトルは、先日僕が誤って踏み潰したもの。それがそのまま転がっている。その隣にはパンパンに膨れたカバン。中には大学で使う教材が入っていた。 神様は一通りそれらを眺めると、顔をしかめて僕を見た。 「……こんな部屋を残したまま死ぬつもりだったのか? 迷惑な男だな」 「死ぬ死ぬ言わないで下さいよ! それは保留にしたんです!」 「保留? つまらんな。さっさと掃除してさっさと樹海にでも行けばいいものを」 「あ、あ、あんた!」 「……なんだ」 僕はわなわなと神様を指差した。 「一体なんなんですか! 僕を選ばれた人間だとか言っておいてさっきから死ねだのなんだの!」 「選ばれたには選ばれたが」 神様は腕組みをしてしれっと言った。 「死にたいのなら止めはせん。別の人間を選ぶだけだ。私は人間の意思は尊重したいのでな。ふふん」 「何得意げになってんですか! そういう時は止めましょうよ! 僕を選んだんでしょうが!」 僕は汚い部屋にうつぶせになると、バンバンと畳を叩いた。途端にぶわっと埃が舞って、僕と神様は軽く咳き込む。 「ゲホッ! なんという人間だ。この私に汚物をかぶせるとは!」 「汚物って!」 「このカビ臭い、ケモノじみた部屋から出た腐臭を全身で浴びることになろうとは……貴様、覚えておけよ」 神様はパンパンと身体中をはたきながら僕を睨んだ。 「ごほっ、だ、だから、一体なんなんですか、あなたは……!」 「言ったであろう。貴様は選ばれた。力を授けるために、わざわざ出向いてやったのだ」 「はぇ?」 「そんな気味の悪い声を出すな。虫唾が走るわ」 神様は軽蔑した目で僕を見下すと、コキコキと腕を上げて関節をほぐした。 「貴様に、時を戻す力を与える」 「え!?」 僕の脳裏に、夏にヒットした女の子が主人公のとあるアニメ映画がよぎった。 「そんなに多くは戻せないが、今この瞬間より、貴様は5秒後でも、10分後でも時を戻して人生をやり直せる術を持つ。失敗した過去をやり戻すもよし。時を戻して同じ未来を過ごすもよし。全て貴様の自由だ」 「え、ええっ!?」 何を言われたのかは分かるけど、それでもやっぱり聞き返してしまう。 アニメ映画の女の子も、時を戻して、色々な――… 「て、てことは、盗まれた宝くじも取り戻せる!?」 「無理だ」 「へ!」 「言ったであろう。この瞬間より、だ。宝くじを盗まれたのはいつだ?」 「昨日……」 「そんなには無理だ。せいぜい二時間前が限度だな。宝くじは諦めるしかないが、これからの人生でやり直したいと思う出来事が遭った時、使うがいい」 「ええええええええええ!? なんだよそれ!? 宝くじが取り戻せないんじゃ意味がないじゃないか! 使えねぇ!」 がっかりだ! あんたにはがっかりだよ神様! 僕が思い切り不満声で抗議すると、神様は途端に半眼になった。 「使えないのは貴様だろう。せっかくの宝くじを盗まれるという失態をおかしおって」 「う……」 「そんな貴様にプレゼントをあげるというのだ。感謝するがよい」 神様は僕の額に指をつけると、何事かつぶやいた。それは呪文だったのだと思う。そこから全身にじわじわと熱が広がって、暖房器具のない部屋が急に暖かくなったように感じられた。 神様は指を離すと、満足げにうなずいた。 「これでよし」 「あ、あのう」 「なんだ」 僕は頬をぽりぽりやりながら、神様を見つめる。 「どうして、僕なんですか? 選ばれたって……」 「ああ」 神様は興味なさそうに、髪の毛を弄びながら言った。 「貴様が一番、不幸だったからだ」 「!」 「この近辺に住む人間の中で、貴様が一番救われない人間だと感知した。貴様には輝かしい未来など存在しない。それがわかったからこそ、私は貴様の前に現れた」 「な、なん、で……」 「大いなる存在は、いつだって気まぐれなものだ」 神様は意地悪く微笑む。 「そんな貴様にこの力を授けたらどうなるのか、見てみたくなった」 「――っ」 「貴様にはないか? 道端で捨てられている小動物に哀れみの目をかけることが。それと同じだ」 「!!」 僕は頭に血が昇り、立ち上がった。神様だろうが冗談じゃない。ここまで侮辱されて、黙ってられるか! 「なんだってそんなことを――うわぁっ!」 一歩を踏み出した足が、つぶれかけのペットボトルを更に踏み潰し、その感触に驚いた僕は盛大に転んだ。 けたたましい音とともに全てが崩壊する。積み上げた漫画雑誌も、テーブルの上のもの全ても、何もかもがガタガタと崩れ落ちた。 「げほ……っ」 「そら、出番だろ」 惨めな僕を見下ろして、神様は冷ややかに言った。 「どこからやり直したい。念じろ」 「ね、念じ……?」 「どうすればこんなことにならなかったのか考えろ」 神様の目が冷たく光る。どこから、だって――? あんたは卑怯だよ。僕がどこからやり直したいのかなんてとっくにわかっているだろうに。 授けてもらった力では、それは叶わない。白々しい物言いじゃないか。ああ、ああ、やってやる。やってやるとも! 僕は自嘲気味に微笑むと、目を閉じた。 「これでよし」 目を開けると、神様が僕の額から指を離したところだった。 僕は呆けながら、周囲を見渡してみる。僕が転んだことによってめちゃくちゃになってしまった狭い部屋が、ただの汚い部屋になっていた。 「後はただ、念じれば戻れる。簡単だろ?」 神様はそう言って肩をすくめた。 僕はつぶれかけのペットボトルを手にとって、ゴミ箱へ投げ入れる。それはこつんと当たると、ゴミの山の上に音なく落ちた。 「……僕はこう言えばよかったんですね」 「なに?」 片眉をあげる神様を力なくみあげ、僕は小さく微笑んだ。 「ありがとう。僕にこんな力を授けてくださって……」 「気持ちの悪いやつだな。何故この力を授けてやったのか、聞かないのか?」 「いえ、もういいんです」 「……ふむ」 神様はにやにやと僕の周りを浮遊した。 「どうやら、すでに一度使ったようだな」 「まあ、見ていてくださいよ」 僕は手の平をぐっと握ってみせた。 「不幸続きの僕が、幸福になる様を」 何か言い返してくるかと思ったが、神様はただ笑っただけで、そのままふっと消えうせた。 僕はそれから、少しずつではあるが、幸運を舞い込めるようになっていった。 何しろ「しまった」と思ったことがあれば、それをしでかす前の時間に戻れるのだから、毎日も楽しくなるし、そうなるといつもはしない失敗もしでかさなくなる。毎日失敗ばかりで気落ちしていた僕が、どんどん明るくなっていく。宝くじのことは今でも思い出すたび気落ちするが、くよくよしても仕方がないのだと思うようになっていた。 そんなある日のことだ。 横断歩道を渡っていると、前方にひとりの線の細い娘が青白い顔で歩いてきた。 目元は隈ができていて、見るからに病弱そうな、頼りない印象の娘だった。 なんとなくその娘に目を奪われながらも歩調を進めると、突然カーブを曲がってきたトラックが、スピードも緩めずに飛び出してきた! 「うわっ!?」 クラクションすら鳴らさないそのトラックを見た途端、僕の体は自然と後方に飛びのいていた。 バーッとトラックが目と鼻の先を通り過ぎる。その瞬間、何かが破裂したような――、ぐしゃりという嫌な音を確かに聞いた。ごとんごとんとトラックが何かを押しつぶして通り過ぎる。あちこちから悲鳴があがる――! 僕はそれから目をそらした。見ちゃだめだ。絶対に見るんじゃない! 「ひき逃げだー!」 「きゃあああああっ!」 僕はその声を聞きながら、固く固く、目を閉じる。 ――なかったことに―― ――なかったことにする!―― それは、一呼吸分ほどの時間に過ぎなかった。 僕が目を開けたとき、すでにそこにはあの娘が、頼りない身体を揺らしながらこちらへ歩いてくる。 僕は咄嗟に駆け出した。僕を避けようと身体をずらす娘にぶつかり―― 「きゃっ!?」 「来い!」 トラックが来たのは同時だった。 僕らはその音を背後に聞きながら、道路に倒れ伏した。 「きゃあああああっ!?」 「大丈夫か!?」 ちょうど近くを歩いていた会社員風の男性と、買い物帰りの主婦と思しき女性が駆け寄ってくる。 トラックはすでに遠い彼方。 僕は身を起こし、下にいる娘を覗き込んだ。 「だい、大丈夫?」 今になって震えが来るとは情けない話だ。 僕の下で縮こまるようにしていた娘は、こわごわと僕を見上げた。 「あ、あの」 「なんてトラックだ! あと少し間違えていれば、人を轢いていた!」 男性が僕の肩をぐっとつかみ、気遣うように娘を見やった。 「どこか怪我は!? ああ、よかった!」 「心臓が止まるかと思ったわ……勇敢な人に、助けられたのよ、あなた!」 主婦も興奮気味に娘に話しかける。 僕と娘は、盛り上がる男性と女性のおかげで、徐々に我を取り戻していった。 「あ、ありがとうございます。ありがとうございます……!」 「いや、いいんだ……助かってよかった……」 娘は起き上がると、僕に向かって両手を合わせて拝むように礼を言い始めた。僕は気恥ずかしくなって、そそくさと立ち上がる。途端にずきりと腕が痛んだ。目をやれば、娘をかばって倒れたときに、すりむいたらしい。 それに目ざとく気がついた皆は一斉に救急車だ、病院だとわめきはじめたので、僕はそのまま逃げるように走り去ってしまった。 情けない。どうしてあの時時間を戻して、もっと格好良くあの娘に話しかけることができなかったのだろう。 いいや、僕はあの娘のために時間を戻したんじゃない。 あんな凄惨な現場にいることが嫌だったからそうしただけだ。あの娘のためなんかじゃない。自分のためにしたことだ。 僕はそのことに酷く罪悪を覚えている。だからあれは、あのままでいい。 下手にあの娘の目に僕がヒーローに映るようなことがあったら、僕はこの罪悪とずっと向き合っていかなくちゃならなくなる。 格好悪い僕でいい。だからもう、全て忘れよう。 だけど神様は意地悪だから、忘れさせちゃぁくれなかったんだ。 いつものように大学へ向かえば、門の前で立つ娘がひとり。 青白い顔に頼りなさげな細い四肢。病人のような雰囲気のあの娘が、僕が来るのを待っていた。 何かを期待するようなきらきらした目で。 ほんのり薄く、頬をピンク色に染めて。 ああ神様、あんたは僕に、どうしろっていうんだい? 戻りたくても戻れない。 あの時僕は、横断歩道なんか渡っちゃいけなかったんだ。 それでも僕は、もう戻れない。 「あのっ、この間は……どうも……」 その娘には、僕の姿がどう映っていたんだろう。 自分を助けてくれたヒーロー? 命の恩人? ……恐らく、そんなような姿なのに違いない。 対する僕は、苦虫を噛み潰したといった表現がぴったりの、複雑な顔をしていた。 「こ……この、大学だったんだね」 かろうじてそれだけを言うと、その娘ははにかんだように笑い、横を向いて軽く咳き込んだ。 「私も、びっくりして。お礼を言おうと思ったのに、行ってしまったから、もう会えないって思ってたんです」 「あはは……」 他人事のように笑う僕。道行く門を出入りする人たちが、すれ違いざまにちらりと僕らを見て通り過ぎて行く。いっそのこと、僕もその波に呑まれてしまいたい。 「あの時は本当に、ありがとうございました。あ、あの。……お名前伺っても、よろしいでしょうか?」 きらきらした瞳で僕を見上げるその娘の顔を見ていると、くるりと背を向けて逃げ出したくなる自分が嫌になる。 あんな現場にいることが嫌で時を戻し、死ぬはずだったこの娘を救った僕は、傍から見れば立派な人間にしか映らない。現実としてそうなのだから、この娘が僕に恩義を感じるのは間違いではないのだろう。だが違うんだ。僕は君の事なんか、これっぽっちも気にかけていなかったんだよ。 この居心地の悪さを抱えて、僕はこれからこの娘に数え切れないほどの賛辞の言葉を浴びなくちゃいけないんだろうか。同じ大学という箱庭の中で、どれだけ逃げようとも、この娘は僕の背を追い続けるのだろうか。なんてことだ。冗談じゃない。僕はこんなお荷物を抱えて生きて行く気はさらさらないんだ。 僕は周囲の人間を意識して、わざと小さな声で名乗ってやった。案の定、娘は首を傾げて聞き返そうとしたが、僕はそれを許さなかった。 「無事でよかった。礼なんていいから。それじゃあね」 早口でそれだけ言うと、兵隊のようにぎくしゃくとその場を離れる。あの娘は気分を害したか、軽く混乱するだろう。それでいいんだ。親切な白馬に乗った王子なんてどこにもいない。現実はこんなもの。どうか僕を、追いかけませんように。 しばらく歩くと、背後でわっと声があがった。振り返る。 「!」 あの娘がうつぶせになって倒れていた。 「救急車呼べ、救急車!」 娘の周りに人だかりができ、数人が携帯電話で誰かに連絡を取っている。 足が勝手に動き、人の輪をかきわけた。 「どうしたんだ?」 「自転車がいきなり突っ込んできて、もろにこの娘にぶつかったんだよ! すごい勢いで転んだきり、動かない――」 「その自転車は!?」 「あっち! あっちで取り押さえられてる――なんだったんだぁ?」 興奮気味にしゃべる男が指差す向こうで、数人の人だかりができている。 「逃げないから! 逃げねーから放せって……!」 「ここ歩道だろうが! なんであんなスピード出してんだよ!」 「うるせーよ! 皆やってんだろうが! なんで俺だけ――」 高校生くらいの青年が、青ざめながらも強がっているのが見えた。余所見か何かしていたのだろう。自分がしでかしたことに気づくどころか、現場から立ち去ろうとしたのだ。最低なやつだ。 「ちょっと――この娘、息、してる――?」 倒れる娘を介抱しようと跪いていた女が、娘の口元に手をやりながら、さっと青ざめた。 「え――!? うそぉ、やだ、ほんと!?」 たちまち悲鳴があがる。僕は開いた口がふさがらなかった。 確かに横顔だけ見せて倒れる娘からは血の気が引き、みるみる生気が失われているような気がする。 「お、おい、おい!?」 周囲の目も気にせず、僕は彼女の細い肩を揺らした。頭がおもちゃみたいにされるがまま、ゆらゆらと揺れた。 「せっかく助けたのに――、何、また死んでんだよ――!?」 僕が素直にこの娘の問いに応じていればよかったのか? 軽く談笑しながら門の前を離れていれば、この娘は死なずに済んだのか? ちょっと待てよ。それじゃあ―― 「あ――っ、もう……!」 ――なかったことに――! この娘の死は、なかったことに、する! 「お名前伺っても、よろしいですか?」 「え!?」 唐突に言われて、僕は戸惑った。 見れば、あの娘が恥ずかしそうに僕を見上げている。 「あ……」 「?」 僕はへなへなと崩れ落ちそうになりながら、時が戻ったことを知った。 「良かった……」 「え」 「いや、君が無事で」 「あ、はい。助けてくださったから」 僕の言葉の意味を理解できない娘は、嬉しそうに微笑んだ。 僕は意識せずにその手首をとると、門から離れるように歩き出す。 「時間。平気なの?」 「? はい。まだ――」 娘はつられて歩き出しながら、戸惑ったように答えた。 「うわ!?」 すぐに背後で盛大な音と共に、数人の叫び声があがる。 「え、なに?」 娘がぎょっとしたように振り返り、僕はワンテンポ遅れてそれに続いた。 前輪がひしゃげたマウンテンバイクと、傍に転がり落ちるように倒れる青年。 「おい!? なんだ、どうした!?」 「いきなり突っ込んできた!」 「救急車呼べ!」 「先生も連れて来たほうがよくないか?」 「高校生かな。意識あるか?」 わいわいと騒ぐ学生たちの前で、やがてのろのろと起き上がった青年に、安堵の声があがった。 「危なかったですね……もう少しで……」 娘はかすれた声で言いながら、はっとして僕を振り返った。……まさか。 「また、助けてもらっちゃいました!」 「いや、偶然だよ、ぐ……」 「私があそこにいたら、きっとぶつかってました! すごい……!」 僕の言葉なんか届きもしない。それどころか繋いでいた手を持ち上げて、空いた手もそれに重ねてぎゅっと握り締めてきた。 「二度も助けてくださって、ありがとうございます! そう、お名前……、まだ、聞いていませんでした!」 「あ、いやぁ、あはは……」 僕は笑いながら、泣きそうだった。 助けたんじゃない。助けたんだとしたら、僕自身だ。結果的に君の命を救ったのかもしれないけれど、僕は君の命より、自分の心を護ったんだよ。 もうやめてくれ。君が僕をそんな風に見上げるたびに、僕は思い知らされるんだ。 自分の心に正義などどこにもありはしないということに。 君が見つめる目の前のヒーローは、ただの人間で。 自分が得をすることしか考えない、思いやりのない人間なんだよ。 事態は僕の思いとは違う方向へ矛先を変えていく。 いつの間にか、僕はあの娘の両親に会わされ、何度も何度も頭を下げられた。 娘を救ってくれてありがとう。ありがとう。ありがとう―― そんなふたりの隣で嬉しそうに微笑むあの娘。 僕はただ、偶然ですと言いながら、頭を下げるふたりの行動を止めさせることしかできなくて。 ここまでされる筋合いなんかないんですと言えない自分が腹立たしくて。 いっそう、罪悪に押しつぶされそうになったんだ。 「娘は、心臓を患っているんです」 お手製のクッキーを出したいから、と出て行ったあの娘の家のリビングで、恐縮しながら紅茶に手を伸ばしかけた僕に向かって、あの娘の母親がぽつりと洩らした。 「……え?」 「本当は入院しなくちゃいけないのに、無理を言ってここに」 母親は震える手でカップを持ち、口をつけたが、かちかちと鳴るだけで、それを傾けることができないでいた。 「長くないと、本人にもわかっているんです。だから、それまでにたくさんのものを見ておきたいと」 カップを受け皿に置き、母親は肩を震わせた。その隣で父親が、鼻を赤くしながら僕を見る。 「その娘を救ってくれた。残りわずかな時間の中で、あなたが娘に、希望を与えてくれたのです。どれだけ感謝しても足りません。この先遠くない未来に娘を失うことはわかっている。それをこうやって先延ばししてくれたあなたは、私たちには神様のように見えるんですよ」 「やめてください、僕は――」 がちゃんとカップを置き、僕は首を振った。 「僕はそんな立派なものじゃないんです」 「立派ですよ」 ふたりは何の曇りもない顔で僕に笑いかける。 「あなたは救世主だ」 どくん、と心臓が波打った。 違うんだ。僕はそういうつもりであの娘を救ったんじゃない。どうしてわからない? 僕は目先の幸せだけ考えていればよかったんだ。どうしてこんな重荷を背負わせる? 今だって僕は、あなた方の娘さんが心臓を患っていることよりも、この場から逃げ出すにはどういう口実が必要なのか、そればかりを考えているのに。 がたんという大きな音が響いたのはすぐだった。 僕より先にあの娘の両親がすぐさま立ち上がり、キッチンへかけて行く。僕は一瞬だけ逃げ出そうと思った自分をしかりつけながら、それに続いた。 後のことは、あまり覚えていない。 うつぶせで倒れるあの娘がいるのは予想できたし、それを見てすぐに救急車を呼びに走る父親と、懸命に娘に呼びかけながら、すぐに取り出せるよういつも身につけているのだろう、母親がスカートのポケットから錠剤を取り出し、娘の青ざめた唇に押し込もうとしているのをただ突っ立って眺めていた後は、ただ流されるまま。 僕を押しのけて家に入ってきた救急隊員が、あの娘に応急処置を施していて、あの娘が口に酸素マスクをつけた状態で慎重に担架で運び出された。 もうだめかもしれないと泣く母親と、じっと耐える父親。 僕にどうしろというんだ。 僕は救世主でも神様でもない。 自分のことしか考えない男だと言うのに。 「ごめんなさい。困らせてしまいましたね……」 ひとまず安定したということで、僕らは病室へ通された。この娘の両親は、医者に呼び出されでもしたのか、この場にはいない。嫌な予感ばかりが胸を締め付ける。恐らくこの娘は、今夜限りなのだろう。 「少しでも、望みなんか持たなければ良かったのかな」 自分の命の砂時計がもうわずかしかないことを悟っているのか、娘は僕に弱々しく微笑みかけながら、うっすらと涙を浮かべた。 「あなたに助けられて、……私、もしかしたらって思ったんです。神様が見ていてくれて、奇跡が起きるんじゃないかって。テレビでたまにあるでしょう。病気を患っていた人が、何かの拍子にって」 酸素マスクのせいでくぐもってよく聞き取れないため、僕は懸命に娘の口元を凝視した。言葉を聞き漏らしてはいけないと思ったからだ。 「……」 「私は、私の中でできていた覚悟を、自分で崩していっちゃったんです」 娘はすんと鼻をすすり、自分で酸素マスクを外した。僕にはそれを止めることはできなかった。ピッピッと音を鳴らす心電図が、やけに癪に障った。 「色んなものを見て、心の中にとどめておいたって、死んだら意味がないのにね。何も見えないままで逝ってしまえばよかった。あなたに命を救われて、希望を持ったって、結局はこうなるのにね」 優しげな口調で、残酷な胸のうちを僕に漏らす娘の顔は、悲壮感に満ちていた。 「私にはヒーローなんかいらなかった」 だから出て行ってと力なく告げたこの娘の言葉に、僕がどれだけ救われたか。 僕は娘の額を優しく撫でて、笑った。 「ありがとう。……僕はその言葉を待ってたんだ」 「え……?」 「あの時僕は、横断歩道なんか渡っちゃいけなかったんだ。 ……それがよくわかったんだよ」 僕は自分のことしか考えることのできない、最低な人間だ。 だけど、この娘もそうだった。 命を救われたことで希望を持ってしまったこの娘は、最後に僕を憎んだのだ。 僕らが出会わなければ、お互いこんな思いはせずにすんだ。 それを回避するにはどうすればよかったのか。 答えはひとつしかない。 「僕は、ようやく人のために何かを為せる。……ありがとう」 宝くじで一億円当たった。 喜んでいたら、その宝くじを盗まれた。 絶望した。人生全てに絶望した。 歩道橋の上で自分の人生についてぼうっと考えていたら、どんな気まぐれか、神様が現れた。 ……いいや。 あれは神様なんかじゃない。 考えてみれば、僕が勝手に彼女を神様と呼んだだけであって、彼女は僕に自分が何者かなんて言わなかったじゃないか。 「おめでとう。貴様は選ばれた」 僕はそれを聞いても、虚ろに笑うだけだ。 「僕は君を知っているよ」 「ほう?」 「君は、悪魔だ」 彼女の愛らしい口元が、邪悪に歪んだ。 「よく、わかったな」 だったらもうわかるだろう。 僕は眼下を見つめた。途切れることのない車の流れ。命が次々に運ばれて行くみたいだ。 君は止めない。そう言ったね。僕の意思を尊重するって。 僕が身を乗り出すところを、悪魔は面白そうに眺めていた。 おかしいかよ、絶望した人間を見るのは。 光を失った僕の瞳の中で、悪魔は今度こそ笑った。 僕はそれに負けじと、悪魔に向かって笑いかけてやる。 僕を見ていろ。僕は人の役に立つために逝くのだ。最後の最後まで、見ているがいいさ。 もうすぐあの娘も僕のところへくるだろう。 それを思うと、救われた気がした。 終わり |
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